聞き手 愛知支部長72S永易幹章
<ハンドボール部の想い出>
72S永易 62E森本一彦先輩は、岡山のご出身と伺っていますが、岡山から大阪の桃山学院大学に進学された経緯を教えて下さいますか。
62E森本 私は、岡山の美作市にある県立林野高校の出身です。高校時代にハンドボールの選手として頑張っていたのですが、たまたま関西学院大学のハンドボール部からお誘いをいただきました。とてもありがたいお誘いだったのですが、指定の学部が私の希望する学部と違ったこともあり迷った末にお断りしました。
私が桃大に入学した経緯
62E森本 桃大に入学するまでには紆余曲折がございました。もう少し詳しくお話をいたしますと、私が通っていた岡山県立林野高校は、ハンドボールでは無名の高校だったので、強豪の関西学院大学からお誘いを受けたことに自分自身とても驚きました。
それで、一度は関西学院大学に進むことも考えましたが、残念なことに、当時はハンドボールで入学した者が入ることができる学部が限られていました。今から思うと、すんなり入学すればよかったと思うのですが、私の希望学部でなかったこともあり、いろいろと迷ったあげくお断りしてしまいました。
そうこうしていたところに、桃山学院大学のハンドボール部のキャプテンがわざわざ自宅までお見えになり強くお誘いくださいました。高校の先生や父母にも相談しているうちに、自分の気持ちが固まり桃山学院大学に入学しハンドボール部に入ることに決めました。
これは後から聞いた話ですが、当時、関西学院大学のハンドボール部のキャプテンと、桃山学院大学のハンドボール部のキャプテンは同じ高校の同級生だったらしく、私が関西学院大学への入学を断ったので、同級生でもある桃山学院大学のハンドボール部のキャプテンに勧誘を強く勧めてくれたということがあったようです。その時は、まだそういったことなどを知る由もなく、とても驚いたことを覚えています。
72S永易 話は変わりますが、愛知支部が2023年に主催した「桃山学院大学開学当時の話を聞く会」の回想録の中で、60E古滝雅之先輩が「開学間もないというのに、ハンドボール部が活躍、関西で好成績を上げていた。国際試合日韓戦に本学チームが参加したのを難波体育館?で観戦したことがある」。とございます。その当時62E森本一彦先輩はその中心にいらっしゃったわけですが、開学し間もない当時に、すでに関西にある大学では桃山学院大学が強豪チームになっていたわけですね。相当練習を積まれたと思うのです。まだ練習場所などの設備が十分ではなかった時代にその確保に苦労されたのではないかと思うのですが、どのようにして練習場所を確保して強くなっていったのかを教えてくださいますか。
ハンドボール部が強かった理由
62E森本 はい、韓国との試合もございましたが、1965年に大阪府立体育会館でフランスと全桃山学院大学との間でハンドボールの国際試合が行われました。 フランスはハンドボールが国技のような国で選手は身長が高く私達は圧倒されました。振りかぶってシュートしても簡単に止められてしまうので、相手の脇の下からシュートするよりほかになかった記憶があります。この試合では全桃山学院大学はフランスチームに圧倒されるという展開になりました。
こういった国際試合ができたのは、顧問の馬場太郎教授が全日本ハンドボール協会の副会長であり、関西のハンドボール界の第一人者でいらっしゃったからこそ実現できたことだと思います。桃山学院大学のハンドボールチームが強かったもうひとつの理由は、全日本ハンドボールチームのコーチを馬場教授が桃山学院大学に招いてくれて、その方の指導を受けたことも大きかったと思います。
病気で選手生命を失いましたが、主務(マネージャー)として復活
62E森本 途中から大学の登美丘寮に入れてもらうことになるのですが、それまでは新聞の販売所に配達員として住込みで働きながらハンドボールの練習に明け暮れていました。そんな生活を続けているうちに、これまでの無理がたたってしまったのか、肋膜炎を患ってしまい1年間の休学を余儀なくされてしまいました。それと同時にハンドボールの選手生命を失ってしまいました。そして、私が休学している間に、ハンドボールのルールが11人制から7人制に変わるということがありました。
病気が治って、3回生として復学してからは再びハンドボール部に戻り、今度は主務(マネージャー)としてハンドボール部をサポートする役目を引き受けました。主務としての仕事はいろいろあったのですが、その中でも大切な仕事はチームの練習場所の確保でした。昭和町キャンパスの高校のグランドはあまり使えなかったので、本町の靭公園、三国が丘の金岡体育館、東住吉高校のグランドなどを借りるために奔走していました。これは、登美丘キャンパスができる前のことになりますが、造成されたばかりの未完成のグランドでもよく練習を行いました。ただ、グランドが高い場所にあるので、ボールが下まで転がり落ちてしまうのには困りました。そういう風に、いつも学外で練習していたので、昭和町のキャンパスではハンドボール部が練習している様子を見ることはあまりなかったと思います。
復学して登美丘寮への入寮が叶い、また大学の体育の授業では補助員として働かせてもらいました。教授に代わって授業での出欠をとることや、その他の雑務を担うことが補助員の仕事なのですが、大学から支給される賃金は思いのほか手厚く、とてもありがたかった記憶があります。
72S永易 本日は森本先輩にたくさんの思い出を語っていただきました。東京で開催されたインカレで慶応大学と対戦して勝ったこと、その次の試合では勝てると思っていた甲南大学に負けてしまったこと、それで自主的に全員坊主にしたら今でいうパワハラと誤解されて学内で問題視されたこと、フォーメーションで相手の陣形を崩して攻撃を仕掛ける桃山の戦法がマンツーマンスタイルで攻守する同志社の戦法に敗れたことを教えて頂きました。また、関西学院大学との試合ではオフェンスとディフェンスのせめぎ合いでの審判のファール判定に統一性がなく馬場太郎先生がすっかり怒ってしまい試合放棄したこと、そのことが原因で関西学生ハンドボール連盟から出場停止処分を受けてしまい、しばらく大学間での試合ができなかったこと、それでも処分解除後には大阪市大との試合で53対3の50点差で大勝利できたことなどの想い出をたくさん語っていただきました。
森本先輩が、今でも忘れない馬場太郎先生のお言葉があるそうです。「試合の相手がたとえ格下であっても全力で試合に臨め。手加減せずに敵の息の根を止めるほど徹底的に攻めまくれ」。だと教えていただきました。
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